母の小さいときの住まいは今の大森南3丁目で大森第四小学校の裏。
空襲警報が鳴らなくても、夜は電球の周りに黒い布で覆っていた。理由は明かりが外に漏れないように・・・漏れると人が住んでいると思われ爆弾が落とされると思っていた。
空襲警報が鳴ると、防空壕へ避難した。母の家は一軒屋で庭に防空壕があったが、鉄筋コンクリートのような堅固な建物ではなく、土壁の2畳弱程度の広さで吹けば飛ぶような防空壕だった。そこへ避難していたのだから、今思えばお粗末でしたと。
終戦間際は蒲田で大規模な空襲があり、その辺りに住んでいた人が大森南に布団だけを持って避難してきたそうだ。焼夷弾(しょういだん)が降ってきたのを見ていて、光の球がいっぱい渦を巻きながら落ちてきた。また必ず焼夷弾が降る前にガソリンがまかれていたそうです。(なんとまぁ恐ろしい・・・)
爆撃機が近づくと、こちらも応戦しようと高射砲(こうしゃほう)で飛行機に向けて撃つが、全然届かない。子供ながらに日本とアメリカの力の差に気づく。通っていた中学校にも高射砲が二基ありました。
中には馬を連れて逃げてきた人もいたそうですが、馬も被害を受けていて目が見えず、空襲の音で怯えていたそうです。
食糧事情は最悪。戦時中、戦後5年くらいは米はほとんど口にしたことがない。米穀通帳(べいこくつうちょう)をそれぞれみんな持っていて、食糧は配給制。といっても少量のさつまいもやじゃがいもがメイン。たまに粉も。
年齢によってはお菓子(かりんとう等)もたまに配給された。3食は毎日食べたが、調味料もなく、しかも量も少ないので、美味しいと感じたことはなく、いつでも空腹感があったようです。ときにはそこらの池で取ってきたザリガニも食べたそうです。小さいながらも「お腹いっぱいになったみたい」と思ったようです。
母の一番下の妹も食糧難から栄養失調になり、不衛生な食べ物で最後は体に入ってしまった回虫で亡くなってしまいました。(たしか3歳くらい)
子供たちの戦時中の遊びですが、遊びといってもこれといったものはなく、男女問わず缶蹴りはやったそうです。正月は凧揚げ、カルタもやったとか。トランプも当時遊んだ記憶はないそうです。
母の家族は戦時中、富山、熱海、越谷にあちこち疎開(そかい)していました。みんなばらばらになっていたそうです。
終戦後も食糧事情はよくならず、毎日同じようなものを食べていた。洋服は常に同じものを着ていて、破けたら、他の衣類で継ぎはぎしている。着た切り雀(きたきりすずめ)の人が大半でした。
特に履物がなく、裸足で生活している子供は多数いたようです。イワシの缶詰は平たいので、その缶に紐を通して靴変わりにしている人もいっぱいいたそうです。
たまに学校では運動靴を抽選で配っていたそうです。といってもぼろぼろの運動靴でもらった人の中には左右同じ(右と右)靴も多かったとか。
食べ物の買出しですが、お金がないので物々交換です。しかし食べ物がないので食べ物と食べ物の交換ができません。母たちは晴れ着と食べ物を交換していたそうです。
日本からアメリカにマッカーサー元帥が帰る日に近く(今の産業道路)を通るっていうことがわかり、みんなで見にいったそうです。息子のアーサー君も見えたとか。産業道路には両側1m間隔に米兵が銃を持って立っていたそうです。
母の家の二軒隣り小林さんというお宅があり(現在も子孫が住んでいらっしゃいます)そこには息子が三人いたそうです。しかし全員兵隊に狩り出され、全員が戦死してしまったとのことです。
(談:叔母)
こんな話を昔聞きました。やはり戦争はとんでもないことですね・・・。私も57歳、語り継がなければいけない年齢になったのかもしれない。
3 件のコメント:
懐かしい! ・・・ 防空壕があったなんて知らなかった。小林さん?・・・
おぼえている! 覚えている。食事はあさひるばんサツマイモだったように思う
匿名ではなくたけしです
たけしさん、ありがとうございます。まだ3歳ですよね。覚えているほうが不思議かも(^^;)
母も毎日サツマイモだったと言っていましたね・・・。
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